こんにちは。
宮城・仙台で「人の心を紡ぐ動画クリエイター/起業家」として活動している 黒木 直一郎(Naoichiro Kuroki)です。
これまで、私がクリエーター起業家になるまでの生い立ちをお話ししてきましたが、今日は少し視点を変えたお話をしたいと思います。
私は1984年(昭和59年)生まれの40歳です。
私が生まれ育った時代は、今よりもずっと「上下関係」や「叩き上げ」の精神が色濃く残っていました。
目上の人に対する態度や言葉遣いなど、厳しく、時には理不尽とも言えるほど注意されて育った世代です。
そんな中で、ふと気づいたことがありました。その気づきのおかげで、私の人生は驚くほど肩の荷が下り、楽になり、そして好転し始めたのです。
本記事の内容
私が気づいたこと、それは「自分自身が使う言葉によって、自分自身が形成されていく」というシンプルな心理です。
今の時代であれば、メンタルケアや心理学の知見として一般的になりつつありますが、私たちの子供時代は違いました。
何か失敗をしたり、誰かがミスをしたりした時、真っ先に飛び交うのは「否定」「批判」「非難」の言葉だったのです。
例えば、食事中にコップの水をこぼしてしまったとしましょう。
「手が滑ってこぼれた」という物理的な事実があるだけなのに、周囲からは
「何やってんだよ」「バカじゃないの?」「あり得ない」といった、
人格まで否定するかのような言葉が投げかけられるのが当たり前でした。
テストの間違い一つとっても同じです。
「なぜこんなところを間違えるのか」と責められる。
今振り返れば不思議なのですが、なぜ事実に対してまず「批判」から入る文化が、あんなにも根付いていたのでしょうか。
こうした「否定から入る文化」は、戦後の教育戦略や日本特有の「郷に入れば郷に従え」といった国民性も影響しているのかもしれません。
「突出した者を出さず、全員を平坦にコントロールしよう」とする力が働いていたようにも感じます。
しかし、この文化は人それぞれの個性を失くし、自由を奪ってしまいます。誰かが何かをすれば、親や先生、先輩に怒られる。
そんな環境で育つと、無意識のうちに「人並みであること」を自分に強いて、未来の可能性を狭めてしまうのです。
私はあるタイミングで、この「負の教育プログラム」のようなものに強く気づかされました。そして、私たちが無意識に行っている「批判的な発想」がいかに不自然であるかを考えるようになったのです。
先日、パートナーと車を運転している時にこんな話をしました。
目の前で、赤信号を無視して猛スピードで走り去る危ない車がいたとします。
その時、私たちはつい
「なんだあいつ、頭がおかしいんじゃないか?」
「危険な奴だ」と、
相手を悪者として決めつけ、非難する思考を巡らせてしまいます。
しかし、事実は「車が信号を無視した」ということだけです。
もしかしたら、その人は子供が急病で病院に急いでいたのかもしれない。
あるいは、普段は穏やかなのに、どうしても避けられない事情があったのかもしれない。その背景は誰にも分かりません。
それなのに、相手を「異常者だ」「悪人だ」と勝手に妄想し、思考を飛躍させて怒りを感じる。
これこそが、自分自身の思考を「攻撃的でネガティブなもの」に染め上げてしまう原因なのです。
なぜ、勝手な妄想で他人を批判してはいけないのか。
それは相手のためではなく、「自分自身のため」です。
常に何かを否定、批判、非難するレンズで世の中を見ていると、自分自身の思考がその色に染まってしまいます。
すると、本来であれば素晴らしい出会いやチャンスだったかもしれない出来事に対しても、「何か怪しい」「どうせダメだ」とネガティブな発想を抱いてしまうようになります。
せっかく人生を飛躍させるチャンスが目の前にあっても、自分自身の「否定的な思考」のせいで、みすみすそのチャンスを逃してしまう。
これほどもったいないことはありません。
世の中の出来事をどう捉えるかは、自分次第です。
無意識に批判や否定を繰り返すことは、自分自身を生きづらくさせ、自分の未来を縛ることと同義です。
もし今、何かに生きづらさを感じているのなら、まずは自分が発する言葉や、頭の中の思考が「否定」に染まっていないか確認してみてください。
事実を事実として受け止め、余計な批判で自分の可能性を狭めない。
そうやって少しずつポジティブに物事を捉えられるようになれば、世界の見え方はきっと変わってきます。
この記事が、皆さんの人生を少しでも軽くするヒントになれば嬉しいです。
REDHEAD 